「清濁併せ呑まなくていい」

「清濁併せ呑まなくていい」

「清濁併せ吞む」という言葉がある。

デジタル大辞泉によると、

「度量が大きく、善も悪も区別なく受け入れる」

とある。


しかし、筆者個人は、この言葉が、あまり好きではない

「清いものだけ取り入れる」ことに美学を感じるのだ。

それは、人間関係においても、モノに関しても、ありとあらゆる

すべてである。

「清いもの」と、「汚れたもの」、その両方を取り入れても、

確かに、「中和」されて、害はなくなるのかもしれない。

しかし、がん細胞と同じで、「悪」が一度はびこると、なかなか、

その根を根絶するのは難しい

これは何も、人体にのみ言えることではない。

組織もこれと同じで、ひとつのがん細胞から、その組織が崩壊へと

向かうことは、本当に多い。

甕の水に例えると、完全無欠な甕を作ったとしても、ちょうど、

1ヶ所でも割れ目ができると、そこからすべて漏れ出てしまうよう

に。

また、コップ1杯の水に例えても、1滴の毒を盛っただけで、その

コップの水が、毒杯に変わってしまうように。

要は、「清濁併せ吞む」ことは、想像しているより、危険な行為なの

だ。


自分の中で、「毒になるもの」、「害になる」と判断したものは、

即座に拒絶していい。

それは、人体においても、精神面においても、人間関係においても、

ありとあらゆる場面においてである。

筆者も、人間関係においても、

「この人といると、なんかいい気がしない」、

「この人といると、すぐに悪口や陰口に話を持っていかれ

る」

と判断した場合には、即座に距離を置かせてもらっている。

それらに付き合うことは、筆者の精神衛生上も、とてもマイナス

なのだ。

加えて、物事においても、「これは自分にとって、害になる」と判断

した場合には、即座に中座させてもらっている。

やはり、人生は「有限」である。

せっかく有限なのだから、自分の人生くらい、

「好きなこと」、「清いこと」で埋め尽くそうではないか。

「嫌いなこと」、「汚れたこと」に構っている時間は無い


「本日のポイント」

「清濁併せ吞まない」


2021年2月3日


安川 典孝

2021年02月03日